片埜神社と桜が散った後の京都八幡の背割堤
5月の連休も終わったと思ったら、夏日になっています。体調管理にはご用心。
さて、本日は枚方の片埜神社と京都八幡の桜の花見が終わった後の背割堤と
京都八幡の周辺の様子を紹介します。
枚方市の牧野駅からスグのところにある片埜神社は、垂仁天皇の頃、出雲の豪族の野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)との相撲に勝った恩賞として、この地を拝領したのがはじまりといわれています。また、野見宿禰の末裔である菅原道真公をともに祀っていましたが、戦国時代の戦乱により荒廃した後に、豊臣秀吉が大坂城の鬼門を守る神として庇護した。(そのため片埜神社の敷地は広大なものだったらしい)現存はしないが大坂城天守の北東石垣に鬼面を刻み片埜神社と対面させたといわれています。鬼門方除け、家相方位の守り神としてご利益があるといわれ、引越しや旅行の前に訪れる人が多いそうです。思っていた以上に立派な神社でしたが、訪れる人は少なくゆっくりと拝観することができます。
片埜神社正門
大阪の鬼門を守る神社として、鬼は片埜神社の守り神とされています。すごくインパクトがありますね!一度訪れると忘れません。豆まきでは「鬼は内」と唱えるそうです。
般若の絵馬
片埜神社本殿(立ち入りはできません)
片埜神社の境内にある稲荷大社
菅原道真にちなんだ牛
片埜神社東門(黒門)
かっては片埜神社の一部であった隣接する牧野公園に足をのばしてみました。アテルイとモレの塚があり、見ているとそばにいた気のいいおじいさんが、歴史の説明を詳しくしてくれました。それによると蝦夷を支配下に置こうとする朝廷軍と蝦夷(現在の岩手県奥州市)のアテルイの間では、何度も武力衝突が起きたが、朝廷軍は何度も撃退された。その後、坂上田村麻呂が征討を行い平定し、アテルイとモレが500余人の兵士とともに降伏した。坂上田村麻呂はアテルィとモレを救い、東北の運営を任せるべきと提言したが、貴族らの反対で処刑された。この枚方市牧野の地がアテルイとモレのゆかりの地として塚が建立された。また、岩手県の地元有志が、坂上田村麻呂と縁の深い京都居水寺にアテルイとモレの追悼碑が1994年に建立されました。
石碑の字は、毎年12月に「今年の漢字」を書かれている清水寺の森清範貫主によるものです。
花見の終わった京都八幡の背割堤にいってみました。花見の時期を過ぎて、自転車ライダーが何人かいるぐらいで、閑散としていました。花見の時の喧騒を思い出すと、兵どもの夢のあとのような侘しさを感じました。
展望台から見た背割堤は右手の宇治川(淀川)と左手の木津川との合流部に位置する。
さくらであい館と展望台。展望台は、花見の季節が終了すると無料です。
イベント広場(淀)花見の時期はいっぱいでした。
京阪電車「八幡市駅」前に「やわた走井餅老舗」があります。走井餅は、江戸時代中期に大津で創業、湧水「走井」を用いて、餡餅を作ったことにはじまります。刀の荒身を模した形は、刀鍛冶が走井で名剣を鍛えたという古事にちなみ、開運出世の縁起を担いだものと伝えられています。
定休日月曜日(祝日の場合は翌日休み)
営業時間 8:00~18:00 駐車場4台
(走井餅老舗)
隣接地は岩清水八幡宮の入り口になります。
高良神社鳥居