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「高倉健」という生き方

2016年12月5日(月)

高倉健」という生き方(著者:谷 充代)を読んでみた。

高倉健さんといえば、不器用で寡黙にして人情に厚い、人物像を浮かべます。

多くの場合、健さんは相手の質問には真正面から答えようとした。すぐに答えられないときは考え込む。それが結果として「寡黙」「不器用」と呼ばれた所以のようだと。

生い立ちは、日本一気が荒いといわれる九州の筑豊で生まれた。中学生のころアメリカへの憧れを抑えきれず、密航を企てたことがあったそうだ。もっと英語の勉強をしたいと一日中洋画を見たそうだ。この原点があり、ハリウッド映画に出演できるほどの英語力だったそうである。大学3年生(明治大学商学部)のころ、一緒に暮らしたい女性がいた。女優になりたいという夢を持った人で、健さんは「女優になるなら付き合わない」と話した。卒業後家に帰って、二人のことを話したが、若すぎると反対された。家を出て彼女と暮らすため、俳優の世界に入ることにした。皮肉なことに、暮らせる金が入ってくるころには、彼女と終わっていた。「日本侠客伝」一作目は健さん33歳のときで、その後「網走番外地」「昭和残侠伝」とシリーズものが立てつづけにヒットし、俳優としての地位を不動のものとした。

健さんと江利チエミさんの離婚の真相は、チエミさんの姉による財産の横領と莫大な借金。それを夫高倉健に負わせたくないとする協議離婚と報じられた。夫を守ろうとした妻の思いやり、その気持ちを尊重して別れを決意した夫であったのだろう。

八甲田山」と「幸せの黄色いハンカチ」で第一回日本アカデミー賞主演男優賞、第二回ブルーリボン賞主演男優賞を受賞している。

好きなものは、コーヒー、中華料理、車(ある自動車メーカーのアドバイザーをしたこともあった)、日本刀(刀匠:宮入行平さんの打った刀に深い感銘を受けた)

嫌いなものは、魚である。小学校に上がったばかりのころに肺を患い、滋養のために母親が毎日うなぎを焼いて食べさせてくれた。そのせいで魚が苦手になった。

映画「ホタル」の船出のエピソードについては、特攻隊の青年たちを世話した食堂のおばさんは、「お母さんと」慕われ、ある隊員から「みごと敵艦を撃沈したらホタルになって帰ってくる」と約束して出撃したという。そのエピソードについて健さんは「凛々しい」この言葉に感動します。こうして映画「ホタル」の映画が船出した。健さんは鹿児島の漁師役。終戦間際に特攻隊として出撃したが、役目を果たせず帰還。恋人を特攻で失った女性と結ばれ、病身の妻を支えて生きている。心に深手を負った二人の出会いと運命を描いた作品。

(共演者・関係者の声)

「四十七人の刺客」で共演した奈良岡朋子さんは、「私が高倉さんのファンなった理由は顔なんです。30歳を過ぎてどんどん大人の顔になり40代・50代では男性的で独特の魅力を持つようになりましたよね」また、健さんは「奥ゆかしくて、さりげない。そこが人の心に夢を持たせてくださる」そんな気持ちにさせる人です。

小林稔待さんは、健さんのデビュー作を見て「カッコよかったです。でも高倉さんは地味でした。芝居も顔も。人の前に出てきて過剰な芝居をしない。僕はそこが好きでした」自分が今日までどうにか俳優の道を歩んでこれたのは、健さんのおかげです。

田中邦衛さんは、テレビドラマ「北の国から」の五郎役を好演した。この五郎役はもともと脚本家の倉本聡さんが「高倉健さんに」と考えていたという。もろもろの事情があってか、田中さんに回ったらしい。健さんと初めて会ったのは、「網走番外地」シリーズの一作目でした。網走に近い川湯温泉でロケがあって、最初の日にまず健さんに挨拶をと思って部屋に行きました。そのときの笑顔はなんと言うか、世間でいう格とか、しきたりとか一切無縁の、本当にやさしいものでした。心から和む笑顔です。撮影が終わってしばらくすると、その笑顔をまた浴びたくなる。俺うまく表現できないけど・・・

高い山は遠くから見ると綺麗だけれど、一年の大半は雪を被っていて、ときには強い嵐も吹くよね。でも何があってもたじろがない。健さんはそういう峻烈な山みたいな存在なんです。

映画製作関係者

健さんは、嘘がない真っ直ぐで、誰がなんと言おうと自分の決めた道を進む。しんどいときもあるでしょうが、決して弱音を吐かず黙っている。

 2014年11月18日 高倉健さん死去